生涯
・1928年6月14日、アルゼンチンのロサリオ市に生まれる。
 幼少の頃から喘息持ちだったが、素晴らしいスポーツマンで読書家だった。
・1951年春、ブエノスアイレス医大生のゲバラは友人の生化学者アルベルト・グラナドスと共にバイクで南米大陸旅行に出かけた。
 途中訪れたペルーのサン・パブロ・ハンセン病療養所を訪れた。療養所でゲバラは孤独で絶望的な人々の暮らしに感銘を受けた。患者達も二人の献身的な奉仕に感動しアマゾン川を下るためのイカダを組んでくれた。
・医学博士号をとったゲバラは再び旅に出た。ボリビアで、政治活動をやっている弁護士リカルド・ロホと知り合い、グアテマラ入りした。グアテマラでは、何かと内政干渉してくる米国に抵抗し、インディオと白人の平等な社会を実現しようとした左派政権を助けようとしたが、政権が米国の支援を受けた傭兵に倒されるとメキシコに脱出した。このグアテマラ滞在中、ペルーの左翼、アメリカ人民革命党の党員のイルダと結婚し、長女イルディタが生まれる。
・メキシコ・シティでゲバラは、フィデル・カストロらキューバ人亡命者達と出会い、彼らとともに、グランマ号でキューバ解放の旅に向かう。ゲバラ28歳、カストロ30歳。しかし、船が座礁、なんとか上陸したものの、政府軍の待ち伏せに合い革命軍は壊滅。ゲバラ、カストロら12名はなんとか逃れる。しかしこの生き残ったゲリラは農民の協力を得てふくれあがり、1959年バチスタ政権軍を倒し革命政権を樹立する。
・革命政権でゲバラは国立銀行総裁を務め、米国に締め付けられる経済を救うため、共産圏に大量の砂糖を売り込んで、見返りに工業化の援助を取り付けることに成功した。しかし、工業製品よりも砂糖を欲しがったソ連はキューバの工業化を遅らせるためにあれこれ口出ししはじめ、それに我慢がならないゲバラと、ソ連とうまくやっていかなければ国が成り立たないと考えたカストロ大統領との間に亀裂が生まれる。
・ゲバラはキューバを離れ、新たな帝国主義との戦いのためコンゴに向かった。コンゴでは西側資本の支援を受けた政権と戦う反乱軍に加わるが、反乱軍内で共産世界の二大国の中ソの対立に巻き込まれ、キューバに戻った。
・キューバに戻ったゲバラはカストロの支援を受け、米国の傀儡であるバリエントス政権を倒すためにボリビアに潜入した。ボリビアのジャングルに潜みながら神出鬼没に政府軍と戦ったゲリラ軍は政府軍を多いに慌てさせたが、1967年10月8日、政府軍の包囲攻撃に遭いゲバラは逮捕される。裁判を行って国際問題になることを怖れたボリビア当局は密かにゲバラを処刑して、戦死したことにした。

 

思想
・平和的闘争の可能性が完全になくなっていないうちはゲリラ活動を開始してはならない。
・戦争が一連の科学的法則にしたがって進行することは明白である。これを無視するものはだれでも敗北する。
・ゲリラ戦士は抑圧者に対する人民の怒りと抗議に応えて武器をとり、武器を持たない同胞を汚辱と貧困に突き落としている社会体制を変革するために戦う。
・ゲリラ戦の環境は、ある瞬間には、我々が戦争について教えこまれたロマンチックでスポーツ的な概念とは違った方法で行動することを要求する。
・理想の実現のためにどんな非難を受けようとも前進するという戦闘的態度、いかなる場合にも狼狽しない沈着、終局の目的への途上に横たわる大きな諸困難に立ち向かう不屈さ、これらがゲリラ戦士を偉大なものとする。
・打撃は絶え間なく与えなければならない。
・サボタージュとテロリズムは、明確に区別することが必要である。テロリズムは全然罪のない人々を犠牲にしたり、革命に利益をもたらす非常に多くの人々を殺してしまう。それはより多くの報復を招き、死者を出すだけである。
・攻撃は絶対的非妥協的にやらなければならない。しかし軍人としての義務を遂行しているにすぎないか、あるいはそう信じている敵兵に対しては、できるだけ寛大な態度をとるべきだ。戦闘の際の負傷者はできる限りの方法で手当してやらなければならない。
・特別の場合を除いて自己弁護の機会を与えることなしに、犯罪者を処刑してはならない。
・安全でない場所では作戦地域内に敵の存在を許すことはできない。
・ゲリラ戦士は戦争の過酷な条件に打ち勝つストイシズムだけでなく、どんな情勢のもとでも、ただ一つの行き過ぎも失策も許さない厳格なセルフ・コントロールを持たなければならない。
・ゲリラ戦士は、戦闘に先立って有利な面と危険とを慎重に分析し、肯定的な結論が出ない場合でも、情勢に対して楽天的態度を失わず、正しい決断を下すことが要求される。参考文献:角川文庫「ゲバラ日記」
     中公文庫「ゲリラ戦争」